− 第9話「不器用な信頼×2」 −

 一歩、足を踏み出す音。
 迫る危険の予感に、硬直する身体を必死に鼓舞する。
 俺の身体、頼むから、今だけサボんないでくれ!
 足に力を込め、膝のバネを一気に跳ね上げる。

 ドゥッッ

 一瞬前まで自分のいた空間に衝撃。
 その余波が全身に響く。
 上手く息が出来ない。
 ほとんど転がるように着地する。
 そこでようやく呼吸が戻ってきた。

「が、は、あッ」

 呼気の勢いで涎が落ちる。
 息苦しさに、視界が涙で滲んだ。
 身体はより多くの酸素を欲している、が

「もう! あんまりイラつかせないでね!」

 間髪入れず、シャボンのような球体が迫る。
 体勢を立て直す時間すら与えられなかった。
 やばい、息できね。
 それだけに思考が埋め尽くされていた俺は、ほんの一瞬能力の発動が遅れる。
 避け切れない。
 右腕、続けて左肩に衝撃が突き抜けた。
 鼓膜が破けたのではと錯覚させるほどの炸裂音。
 その勢いで、右手に握っていたエアガンがどこかへすっ飛んでいく。
 反り返りそうになった身体を支えようと、反射的に足に力を入れた。
 ――やべっ。
 気付いたときには、右脚が吹っ飛ばされていた。
 浮遊感は、刹那。
 ほとんど受身も取れず、床に叩き付けられる。
 薄く開いた目の先に、ふわりと舞うシャボン。
 それが、ポスンと腹の上に触れ

「……っ!」

 衝撃に押し潰された。
 床に転がっていたため、力が直接俺の身体を蹂躙する。
 ハエ叩きに潰されるハエの気持ちが、少しだけわかったような気がした。

「あは、ようやく止まってくれたね」

 たかたか。
 足音がゆっくり近づいてくる。
 身体を動かそうとしてみるが、末端部分しかまともに動かせない。
 芥川との戦いとここに来るまでの間、そして今のやり取りでダメージを受けすぎた。
 もうほとんど力が残っていない。
 ……腹減った。

「矢神のおにーさん。まだ喋れる?」
「……お、う」
「そっかそっか。よかった」

 覗き込んできた
綾瀬は、無邪気に笑っている。
 素直に怖いと思った。

「それじゃ、今から私の邪魔をした罰をあげるから」
「……謹んで、遠慮させてもら」
「遠慮なく受け取ってね」


     *


 時間にして二分だろうか、三分だろうか。
 もしかしたら一分も経っていなかったかもしれないし、十分くらいだったようにも思う。
 全身に響く痛みのせいで、時間の感覚がまるでわからなかった。
 ポフッと軽い音を立てて、綾瀬のシャボンが胸の上ではじけて消える。

「あースッキリした。ちょっとやりすぎちゃったかな? もしもーし、矢神のおにーさん生きてるー?」

 声は随分遠いところから聞こえてきている。
 口を動かすだけの労力すら惜しくて、返事はしなかった。
 どてっぱらに空洞が空いているような痛みは、綾瀬の攻撃だけのものではない。
 腹が減って死にそうだった。
 こんなことなら、ケチらないで普段からもっと高カロリーなものを食べておくんだった。
 ラーメン、カレーライス、牛丼、ハンバーグ……ああ、想像してたら余計に空腹感が増してきた。
 食糧を求めて腹が悲鳴をあげる。

「へんじがない、ただのしかばねのよーだ。なんて、息もしてるみたいだし大丈夫だね。とりあえず霧矢くんに電話しとこ。元々の任務は失敗かもだけど、もう一人のターゲットを確保したんだから、霧矢くんに口添えしてもらえばおしおきされないかもしれないし」

 そういえば、関原の奴はどうしただろう。
 音沙汰がないところを思うに、この場は逃げ出したのだろう。俺を置いて。
 賢明な判断だと思うと同時に、僅かに落胆した自分を笑いたくなった。
 俺はあいつに何を期待していたのだろう。
 お互いにおかしな力を持っているということしか共通点のない、出会って間もない人間じゃないか。
 どうして俺は、あいつを助けに来てしまったのか。
 「協力」だとか「仲間」なんて言い草を本気で信じたわけじゃない。
 それなのに、脅迫めいたことまで言われたとはいえ、どうして俺はあいつの、関原の言葉に頷いてしまったのか。
 ――アイスのせい。

 それもないとは言い切れない。が、それだけじゃない。
 話しているときに、冷徹な表情から垣間見えた関原の辛そうな顔に胸が痛んだから。
 そして、俺と同じく「普通が恋しい」と言ったあいつの目が、俺のことを真っ直ぐに見ていたから。
 ぼんやりとした意識の中、そうとわからないくらい微かに口元を歪める。
 なんだ、俺は結局、関原のことを信用に足る人物だと思い込んでいたらしい。
 それなら別にいいか。
 どんな結果に繋がろうと、それは俺の判断によるもの。
 後悔も何もない。ただそうなってしまった現実を迎えるしか出来ない。

「もしもし霧矢くん? 矢神のおにーさんがこっちに来るから、やられちゃったのかと思ったよー。え、あ、うん、邪魔されたされた。もう参っちゃうよ。関原のおねえちゃんには逃げられちゃうし。おにーさんは返り討ちに出来たけど」

 綾瀬は芥川に連絡を取っているらしい。
 コンディションが悪かったとはいえ、俺がこんなお子様に負けたことが奴に知られるってのはいい気分じゃない。

「もうすぐこっちに来るの? 了解だよ。……あは、大丈夫、そんなに心配されなくたって私は」

 全身に微かな振動がきた。
 何かが降ってきた、ということだけを肌で感じ取る。
 ほぼ同時に、少し離れた場所でかしゃんと何かが落ちた音。
 なんだ? なにが起きた?

「うなあっ! な、なに? なんで?」
「大人しくしてください。私の能力を知っているなら、一度捕まったら抵抗は無意味なことはわかるはずです」

 その平坦な声には聞き覚えがある。
 驚きも束の間、自分の口元に笑みが浮かんだことに気付いた。

「なんだよ、戻ってきてくれたのか」

 口だけを動かして、呟くように言った。

「一応、協力を求めたのは私ですから。助けに来てもらっておきながら早々に見捨てるような真似はしないつもりです」
「思ったより情に厚いんだな」
「あなたの信用を買うための打算的な行動です」

 体が軋むのも構わず、俺は笑い声を漏らしそうになる。
 本当に打算的な人間ならな。
 その言葉には、少なくとも自嘲的な色は出さないと思うぞ、関原。
 口には出さずに、そんなことを思った。
 ほんの少しだけ、俺は関原のことを見直

「それにしてもこんな小さな子にボロボロにされて、いい格好ですね」

 クス、と小さな笑い声。
 ――やっぱりこいつ、いけ好かねえ!

「やっぱり助けになんて来なきゃよかったかな……」
「そんなこと言わないでください。素直に助けに来てくれたことには感謝しているんですから。立てますか?」
「今すぐには無理。少し休めば歩けるくらいには回復するかも。でも腹減って死にそう」
「命に別状がないようで何よりです」

 最後に付け加えた部分だけ無視された。

「さて、ひとまず無力化には成功したわけですが、この子どうしましょうか」

 関原に捕まった綾瀬は、抵抗は無駄と悟ったのか大人しくしている。
 その表情は悔しさに歪んでいて、今にも噛み付いてきそうだ。

「どうしましょうって……どうすんだ?」
「とりあえず、私の家にでも軟禁させてもらいましょうか」

 穏やかじゃないな。
 軟禁と聞いて、綾瀬がびくりと体を震わせたのを俺は見逃さなかった。

「それはちょっとやりすぎじゃないのか」
「私だって、出来ればそんなことはしたくありません。でもこの子を捕虜にすれば、日特連に対する牽制にもなります。日特連には私に固執する理由があるとは思えませんから、そのまま見逃してもらえる可能性もゼロではありません。まあ、それは流石に希望的観測に過ぎませんが、少なくとも身柄を拘束するデメリットは無いように思います」
「良心が痛むんだが……」
「力無き正義は無力です、矢神先輩」

 有無を言わさない口調に、俺はぐっと押し黙った。
 俺の沈黙を肯定と取ったのか、関原は綾瀬の体を抱き起こし、体育館の入り口の方へと向かう。

「って、関原、俺は放置か?」
「私一人で二人も担げるわけないでしょう。矢神先輩はなんとか一人で帰って――」

 関原の言葉が不自然に途切れる。

「やあ、良い眼鏡の人。この間振りだね」

 視線を向けるまでもなく、声の人物がわかった。
 よくよく考えてみれば、ここには関原だけでなく綾瀬もいる。
 関原の位置を俺に教えてくれたからといって、奴が何のアクションも起こさないわけがない。

「確か、芥川と言いましたね」
「覚えていてもらえて光栄だ」

 相変わらず芥川には根拠のわからない自信がある。

「早速だが関原・遠乃。僕から一つ提案があるんだ」
「聞くだけ聞きましょう」
「そこの矢神・博司もとい卑し系平和主義を運ぶのを手伝ってやるから」

 芥川、元気になったら、ぶん殴る。
 俺の心を率直に表現した名句だと思う。

「美春を解放してやってくれないか」
「拒否します。こちら側にメリットがありません」

 関原の決断は一瞬だった。

「矢神先輩なら心配はありません。もうしばらくもすれば勝手に立ち上がって家路を辿り、大好きなアイスでも食べてから今日の我が身の不幸を思い出して息を荒げながら眠りにつくことでしょう」
「……君の中では矢神はそういうキャラなのか?」
「この子の能力を生身で受け続けてたので、てっきりそうなんじゃないかと」

 助けに来てやったはずなのに、どうして俺はこんなに貶められているんだ。
 せめて俺という人間の尊厳に傷をつけるのはやめてほしい。

「まあ、矢神マゾ疑惑は置いておくとして」
「待て。全力で否定させろ」
「関原・遠乃、僕の提案を受けてくれないか? 僕としても、あまり力に訴えたくはないんだ」

 俺の訴えは完膚なきまでに無視された。
 芥川の提案に、関原は何やら考え込んでいた。
 関原は疑い深い性格のようだから、提案を素直に受け入れるのは難しい。
 かといって、「いいえ」と言っても、芥川に勝つのはほぼ不可能だ。
 先ほど自分で言っていたように、関原の能力は戦闘向きじゃない。
 その上綾瀬を拘束しながらの戦いでは、芥川との実力差を無視したとしても勝ち目は皆無。

「信用するに足る要素が、そちらに足りないとは思いませんか? 一方的な提案を強制するなら、それは取引とは呼べません」
「なるほど。一理ある」
「それに、今日は話し合いだと聞かされていたのに、結局戦闘を仕掛けられました。これで信用しろと言う方が無理というものです」

 あちゃあ、と芥川は頭を掻いた。

「それについてはこちら……というか、美春の不手際だった。おい美春、勝手なことをやるなってあれほど言ったろう」
「うー、だってやっぱり能力を使わざるを得ない状況に追い込む方が実力も見れるし……」

 一際大きい溜息が聞こえた。
 芥川も芥川で、それなりに苦労しているらしい。

「わかった。それじゃ、美春の身柄はそちらに預けよう。その代わりに美春の身の安全だけは保証してくれ」
「随分と譲歩するんですね」
「自分を信じさせるには、まず相手を信じることから始まる……と言うのは言い過ぎだが、君達は日常を守る側だろう? なら、滅多なことはしないはずだからな。そこは信用させてもらうよ」

 言い終わると、用事は済んだとばかりに芥川はその場を去っていった。

「んー、まあ、いっか。それじゃしばらくよろしくねー二人とも」

 綾瀬は自分の立場もわかっていないのか、にっこりと笑った。
 無言で立ち尽くしていた関原だが、一拍置いて、深い溜息をつく。
 二人の様子を見ていた俺は、ふと思ったことをそのまま呟いた。

「なあ、もしかするとお荷物背負わされただけなんじゃないか?」
「違う、言いたいところですが、なんだか私もそんな気がしてきました……」

 芥川……侮りがたい奴だ。