− 第5話「平穏は泡と消ゆ?」 −

 痛む頬を押さえつつ、俺は朝の通学路を陰鬱と歩いていた。
 昨日は散々だった。結局関原のことは保留にしたが、近日中に答えなければならないだろう。
 なにせ口封じが目的とまで言った関原だ。何をするかわかったものではない。
 だが迷うことなのだろうか。能力はばれた。
 それは、穏やかな生活の終わりを意味する。
 それを少しでも先延ばすためには、関原に加担するしかない。
 このままでは今まで隠してきた苦労が水の泡だ。

「いや、そうまで苦労してないか。バイトの時も使ってたし」

 思えば、それでつい使ってしまったのかもしれない。
 我ながら迂闊なことだ。だが使わなければ生活費すらままならない。

「世の中、ままならねぇな」

 不平不満はいくらでも出るものだ。
 それもそうか。能力がばれたのだから。関原とはもう一蓮托生だ。
 ばらされたら終わり。UCISとは、最早それだけのものなのだ。
 確かに日特連――日本特異能力連盟が能力者を支援してはいる。
 詳しい話は忘れたが、一般に浸透する差別意識を払拭するために、精力的に活動していたはずだ。
 だがそれも暖簾に腕押し。あまり効果はないようだ。
 しかも、関原が言うには『怪しげなコト』とやらをしているらしい。
 それが差別意識を払拭するためのものなのかはわからないが、あの言い方からすると褒められるものではないようだ。
 俺は、はるか後方にちらりと視線を投げた。

『終わらせねばならんのだ! UCIS能力者に怯える日々に、終止符を打ち込まねばならんのだ!』

 選挙カーからの演説が、どうにも現実味を帯びてきていた。



「あれ? 今日は早いね」

 教室に入ると、能天気な声が降ってきた。つられて顔をあげる。

「……昨日は眠れなかったからな。ところで月峰。一つ質問があるんだ」
「なに? ちょっと今埃っぽいから、あまり話せないんだけど」
「あぁ、一言ほしいだけだ。……何をしているんだ?」

 月峰は、机の上に椅子を乗せ、その椅子の上に立ち、両手を上げていた。
 その手の先には蛍光灯がある。やっていることは明らかだった。

「蛍光灯を換えてるんだよ」
「あー、やっぱそうか。ありがとう。だがそうなると、もう一つ疑問が出てくる」
「もー、一言って言ったじゃない」
「聞き流していい。というか面倒だから言うけど、何でお前がしてんだ?」

 もちろん、月峰はスカートだ。下に回り込めば見えるが、本人は特に気にしていないようだ。
 ただ女子たちが周囲に陣取っており、男子に睨みを利かせていた。
 当然、離れているとはいえ見上げている俺にも、女子たちの視線は突き刺さる。

「うーん、誰も換えなかったからだけど」
「男子を使え。というか、倉本はどうした。あいつがいればこんなことは――なら、いないのか」
「この時間はいつもぶどうパンを買いに行ってるね」

 昼は混む。そういえばそんなことを言っていたか。
 月峰の手つきはおぼつかない。蛍光灯を換えたことなどないのだろう。今にも取り落としそうだ。
 周囲の女子はさすがに代わるつもりはないようだし、男子も遠巻きに見ているだけだ。

「めんどくせぇ……」

 そう言いながら、机に近づいていく。

「ほら、代われ。こんなのすぐ終わらせてやる」
「え? でもいいよ。すぐ終わるから。っと……」
「ぐらついてんだろ。いいから代われ」
「平気へい――」

 月峰の体が傾いていく。机と椅子とはいえ、かなりの高さだ。落ちれば怪我ではすまないかもしれない。

「バカ!」

 咄嗟に、足に力を込める。残りの距離を一気に駆け、硬直している女子の間をすり抜け、跳躍した。
 伸ばした手に衝撃が走る。両手をクッションに月峰を地面との衝突から守ると、俺の体が腹から着地した。
 痛い。肘や顎をぶつけてしまった。当の月峰は、きょとんとした顔で天井を見上げているのだから呑気なものだ。

「おー、なんか愉快なことやってんな。今は寝転びながらお姫様抱っこが流行ってんのか?」
「……倉本か。ぶどうパンは?」
「こんなのが売り切れるわけないだろ。ところで、そこのマドモアゼルには手を貸してあげた方がいいのか?」
「頼む」

 へらへらと笑いながらやってきた倉本に手を借り、月峰が立ち上がる。まだボーっとしているようだが、怪我はないようだ。

「ったく、驚かせやがって」
「ご、ごめんね……」

 俺も立ち上がり、埃を払う。朝っぱらからハラハラさせるやつだ。

「で? この愉快な状況の説明がほしいんだが?」
「蛍光灯が切れそうだったから、変えてたんだと」
「おいおい、俺が帰って来るまで待てって。頼れる倉本くんをアピールするチャンスだってのによ」

 少し大げさに、倉本はおちゃらけて見せた。
 こいつの真意がどこにあるかはどうでもいい。俺はもう疲れた。
 席について寝ようと思い、意識を席に向ける。
 そこにきて、遠巻きに見ていたクラスメイトたちがざわついているのに気付いた。

 ――UCIS

 その言葉に、体が硬直した。
 迂闊。俺は、いつの間にか使っていたのか。月峰を、支えるために。
 入り口から五メートルを一息で駆ける。普通なら硬直してもいい状況で。
 UCISの存在はすでに、一般にも浸透している。
 だからこそ政治家たちがこぞって槍玉に挙げているのだ。
 そして、その存在も極めて珍しいというわけではない。
 学校が一つあれば数人。一地区には十数人。
 しかも今は選挙戦で、街頭演説ではUCISの名を嫌でも耳にしてしまう。
 不審な行動が、UCIS能力者に直結するのだ。

『UCIS能力者に怯える日々に、終止符を打たねばならんのだ!』

 今朝の街頭演説が、頭の中に響いていく。
 熱意のこもった弁舌は、そのまま心を抉る凶器となる。

 俺はただ、平穏に生きたいだけなのに――

 平衡感覚が曖昧になっていく。
 聞こえるはずのない言葉。見えるわけもない奇異の目が、俺の心を苛んでいく。
 あぁ、幻覚が現実になるのかもしれない。
 UCIS。ただそれだけだというのに。

「おーい、お前ら。矢神は引越しのバイトしてっから、荷物が落ちてくんのにゃ慣れてんだ」

 助け舟は、すぐ傍で漕ぎ出された。

「わかったら教師にゃ黙ってろよー。矢神が青くなってっからよ。ばれてクラスメイト停学って嫌だろ」

 倉本の言葉で、クラスメイトは納得したようだった。興味を失ったように散開していく。
 いや、最初から大して考えてないのかもしれない。非能力者にしてみれば、その程度のものなのか。

「ま、引越しよりは重い荷物だったかも知れねぇけどな」
「ひ、ひどいよ〜。私、そんなに重く……ないと思うけど……」

 倉本がバカ笑いし、月峰がふくれる。そしてそこに、俺がいる。
 穏やかな日常は、まだ続いていた。



 昼休み。いつものように食事を取りながら、俺たちは三人でだべっていた。

「しっかし、あの蛍光灯は憎らしいぐらいに光ってるな。少しは申し訳ないと思ってるのかね」

 倉本はぶどうパンを食べながら文句を言っていた。
 件の蛍光灯は、換えてもいないのに再び光を取り戻している。
 確かに文句の一つも言ってやりたかった。

「蛍光灯は悪くないよ。バランスを崩したのは私だし」
「にしても、あれほど切れかけてたってのにあれだろ? 怪我はなくてよかったけどな」
「たまたま矢神くんがこっちに歩いてきてたからね。命の恩人だよー」
「うむ。よきにはからえ」
「倉本くんじゃないよー」

 月峰の言葉に、倉本は満足げに笑った。
 蛍光灯を換える役を代わるために歩いていたから、意外と近くて助けられた。
 どうもクラス内でそういうことになったらしい。
 あの矢神が、あんなに格好よく助けられるわけがない。
 それが統一見解だったのは、嬉しいのか悲しいのか。理屈をこねてまで貶めないでほしい。
 けれど結果的にはそれでよかった。面倒くさがりで助かったのは初めてかもしれない。

「そういや、あれ見ろよ」

 突然の話題の転換に、倉本の示す方向を何気なく眺めた。
 関原がいた。

「ぶっ!」

 思わず玉子焼きを噴出しそうになり、慌てて口を閉じる。
 そんな様子も構わず、倉本は続けた。

「ジーっとこっち見てるけどよ。ついに俺にも春到来? 結構かわいいし、一年かね」
「ちょっと緊張してるね。かわいいなぁ」
「落ち着けお前ら。性格は悪いから。それに、あれは緊張じゃなくて仏頂面」

 椅子を引き、立ち上がる。

「お? お前の知り合い?」
「今度紹介してよー。一緒に遊びに行きたいな」
「やめといた方がいい。あれは俺には合わん」

 二人に適当に手を振り、食べ残しの弁当を置いて、俺は教室の入り口でこちらを睨みつける関原に近づいていく。
 そして目の前に立った時、視線が合った。

「用があるなら、呼べばいいだろうに」
「用があるわけではありませんから。矢神先輩」

 ピリピリとした雰囲気。やはり昨日の一言が引っ掛かっているのだろうか。
 うっかりとは言え、申し訳ないことをしたものだ。
 そんなことを考えていると、関原は視線を外し、俺の背後を見やった。
 振り返ると、月峰と倉本がこちらに手をふっていた。

「場所を変えるか?」
「……友人ですか?」
「ん? えっと……まぁ、一応な」
「はっきりといえばどうですか? お前と違って俺には友達がいると」

 関原はそう言うと、勢いよくそっぽを向いた。よっぽど腹に据えかねたのだろう。
 本当に友人がいないのか。膨れている関原を見ると、あながち間違いではあるまい。
 人は本当のことを言われた方が、傷ついてしまうのだから。
 少し気まずく、視線をさ迷わせながら次の言葉を探していると、関原は視線を俺に戻した。

「ところで、昨日は話の途中でしたね」
「めんどくさいんだけど」
「拒否出来るとでも?」
「なら本当に場所を変えよう。こんなところで話したくはない。今朝も失敗したからな」
「そういえば、顔色が優れませんね。大丈夫ですか?」
「時間は経ってるから大丈夫だよ」

 我ながらあそこまで怯えているとは思わなかったが、能力者は大体そんなものだろう。
 誰だって、今までの日常が壊れるのは恐ろしいのだから。それが虐げられるなら尚更だ。
 だから関原に従うかといえば、もう少し考えていたいのだが。

「じゃあ、近場で人がいないところって言うと……」
「いえ、それには及びません。昼休みでは短すぎます。放課後、また」
「バイトが、あるんですけど?」
「こちらを優先させてください」

 言いやがった。不幸にも今日はバイトはないが、終わるまで待つぐらいは言ってほしいものだ。
 だが反論しても面倒なことになるだけで、こいつは譲りそうにもない。
 一度じっくり話した方が、互いのためにもいいってことか。
 俺は決心した。
 よし、逃げよう。

「わかった。放課後、教室で待ってろ。すぐに行くからさ」
「む、急に協力的になるのも不気味ですが、アイスはまだありますし、また家でいいですか?」
「よし、時計を合わせるぞ。一分一秒でも遅れたら、それ相応の罰を用意するから覚悟するように」
「……迎えに来るって言ってましたよね」

 関原は呆れていた。しかし仕方がないのだ。アイスがあれば、人は生きていけるのだから。

「では今日の放課後に――」

「そんなに、待てないよー」

 妙に耳に入り込んできたその声。俺と関原は、同時に廊下の奥を振り返った。
 栗色のツインテール。服こそ制服だが、幼い外見からして生徒ではないだろう。
 肩からポシェットを下げたその姿には、見覚えがあった。

「お姉ちゃん、一緒に来てほしいんだー。だから――」

 変装する気もないのか、皮製のホルスターからエアガンを取り出す。
 そして、邪気のない笑みで一言。

「ついてきたくなるようにするね」