− 第2話「らららぶどうパン」 −
俺は倒れた体を抱えながら、身を起こした。吹き飛ばされはしたものの大事ではない。
そんなことよりも、これからどうするかの方が重要だった。
スクーターの運転手はすでに立ち上がり、こちらへと歩いてきている。
ヘルメットを外し、さらさらとなびくこげ茶色の髪を揺らしながら、こちらを睨みつけていた。
完全なお門違いだ。ぶつかってきたのは、あんただろうに。そうは思うが、口にはしなかった。
本来なら警察を介入させなければならないだろうが、面倒なことになるだろう。
慰謝料は欲しいが、この程度なら微々たるものだ。騒ぐほどでもない。
それによくわからないが、病院で検査をされればUCIS能力のことがばれてしまうかもしれない。
幸いにも被害者はこちらだ。言いくるめてしまえばいいだろう。
と、そう思った矢先、運転手が投げやりに声をかけてきた。
「大丈夫か?」
「大丈夫。心配することなんかないさ」
「そうか。ならいいだろ。クリーニング代だ」
運転手は俺と年が同じほどの青年だった。
俺の返事を聞くと財布から札を出し、ひらひらと地面へと落とす。
そのまま踵を返し、倒れたスクーターを起こした。
ガードレールが凹んでいるところをみると、衝撃は大きかったようだ。
数度のエンジン音。空回りしていたエンジンに火がつくと、青年はにやりと笑った。
「じゃあな」
その言葉と共に、スクーターは勢いよく走り去っていった。
エンジン音が遠のいていく。
残ったのは夜の帳に包まれた、静かな路地の風景だけだった。月明かりさえも今は陰っている。
「めんどくせぇとは思ったけど、あれもどうかと思うなぁ」
地面に落ちた札を拾い上げる。五千円札だった。
同い年ぐらいだと思ったが、随分とブルジョワなやつだ。
なんとうらやましいことか。俺がこれだけ稼ぐのにどれだけ――
いや、よそう。結果的に何事もなかったのだ。そう思い、立ち上がる。
緊張もほぐれてきたが、痛みなどはないようだ。能力のおかげだろうか。
便利だとは思うが、二度とこんな場面には出くわしたくはない。
ただ臨時収入は素直に嬉しかった。家計は大助かりだ。
さて帰ろうかと伸びをしたところで、違和感に気づいた。
「あれ? ガードレールって凹んでなかったか?」
スクーターに当てられたガードレールは、変わらず真っ直ぐと伸びていた。
いや、傷が付き、少し歪んでいるだろうか。けれど事故というよりも、誰かが悪戯で曲げた程度のものに思える。
「案外、大したスピードじゃなかったのかもな」
そうひとりごちると、特に気にもせず自宅への帰路を急いでいった。
※
大きな欠伸を隠しもせず、俺は朝の通学路を歩いていた。
面倒だ。しかし行かないわけにもいかなかった。
例え予鈴を飛ばして始業のベルが鳴ろうとも、出席するに越したことはない。
昨夜はバイトをした上、スクーターに撥ねられたのだ。遅刻程度はお天道様も多めに見てくれるだろう。
そう結論付け、俺はのんびりと朝の登校を満喫していた。
校門まで差し掛かった頃だろうか。『市立奥府北高校』の文字が迎える中、のんびりした呼び声が聞こえてきた。
「お〜い。矢神くーん」
教室から漏れ出るその声の主は女だ。なんとも間の抜けた声に、呼ばれた俺は不機嫌を隠すことなく相手を見やる。
「矢神くーん。そろそろホームルーム終わるよ〜」
そんなことは分かっている。けれど言い返すのも面倒なので放っておいた。
それを聞こえていないと勘違いしたのか、さらに間の抜けた声で続ける。
「ホームルームが終わると一時間目が始まるよ〜」
同級生なのだが、どうにも面倒なやつだった。
普通は嫌そうな顔をすれば黙るものだ。雰囲気ぐらいは察して欲しい。
声から逃げるために少し早足になりながら、小さくため息をついた。
昇降口で靴を履き直し、階段を上っていく。
ホームルームが終わったのか、ちらほらと生徒たちも廊下に出ていた。一時間目まで間もないので、小用だろう。
と、誰かにぶつかった。昨日に続き、よくぶつかる日だ。そんなことを思いながら、小さく手を上げる。
ぶつかったのは少女だった。後輩の一年だろうか。短い髪が流れ、シャンプーの残り香が鼻をくすぐる。
後姿で表情は見えないが、謝罪もないということは性格がいいわけではないだろう。どこかで見たことがある気がする。
だがどうでもいい。思い出せないのならその程度のことだろう。
そう気を取り直し、残りの階段を上っていった。
教室に入ると、始業のベルが鳴った。教師はまだ来ていない。間に合ったようだ。
「矢神くーん。急がないと始まっちゃうよ〜」
変わらぬ声に、再びため息をついた。そのまま教室を進み、窓際の自分の席に座る。
目の前ではニコニコと笑うクラスメイトがこちらを向いていた。
「さっきからありがとよ。んで、始まるんなら前を向いてた方がいいんじゃねぇか? 月峰」
「次は数学の授業だよ」
「……どうも」
鞄を机のフックに引っ掛けると、机から教科書を取り出す。
「矢神くんは忘れ物しないよね」
「これでもしっかりしてるんで」
「でも宿題はしないよね」
「これでも忙しいんで」
月峰からの問いを適当に返しながら、俺は机に突っ伏した。
エネルギー切れ。もう何もしたくない。面倒だ。
それが不満なのか、月峰は困ったようにこちらの肩を揺さぶっている。
ふわりと、先ほどとは別のシャンプーの香りが鼻を刺激した。月峰の髪は長い。
顔を上げると、肩を叩く反対の手で、内にはねている髪の先端を弄っていた。
月峰は性格を除けば美人な部類に入るだろう。胸も大きく、人当たりもいいので男子たちにも人気が出そうだった。
だが一番の難点は……
「矢神くん、先生が来たよ」
「なら前を向け」
「うん、向くね」
良く言えばマイペースというか、どうにも捉えどころがなかった。
こんな人間が一番面倒だ。空気ぐらいは読んでくれ。
授業は話を聞いてないことを除けば、滞りなく進んでいく。
割といつものことだ。気持ちはすでに夜のバイトに向かっている。
貧乏な星の下に生まれたなら、生活費を稼がなければならない。それは仕方のないことなのだ。
床から金が涌き出てくれるならどれほど楽だろうか。というか涌け。
「お、今日も窓際族か?」
呼びかけに顔を上げる。どうやらもう昼休みのようだ。一日が二十四時間とはとても思えない。
俺は鞄から弁当を取り出し、机に広げた。
「たまには学食に付き合えよ」
「あ? なら奢れよ」
「そうは言っても、こちらの財政も切迫しているのだよ」
一人の青年が大げさに手を広げ、かぶりを振った。クラスメイトだ。
が、俺は弁当に視線を戻した。それが不満なのか、青年は机にかじりつくようにして俺を見上げる。
何か喚いているが無視していると、前の席の月峰が弁当を持って椅子を半回転させた。
「倉本くんは、矢神くんと一緒にご飯が食べたいんだよね」
「そうそう、その通り。というか今、そう言ったよな」
「月峰。こいつは構うと調子に乗るぞ。世話の仕方を考えろ」
「何その珍種!」
倉本はひとしきり喚くと、隣の机から椅子を一つ接収し、俺の机に繋げた。
そのまましたり顔で座り、手に持っていたパンを広げる。
「ま、何だかんだ言ってこっちの方が楽だけどな。人や時間を気にしなくていい」
「で、今日のパンは何だ? まさかまた……」
「当然。レーズンパンとぶどうパンだ」
「どっちも一緒だって言ってんだろうが」
袋を破り、一口目を食べる倉本にそう言うと、俺も弁当を食べ始める。
「お、月峰。ぶどうパン一口やるから、その玉子焼き一つくれよ」
「あれ? 倉本くんはぶどうパンの方が好きなんじゃないの?」
「その玉子焼きがあれば、もっと美味しくぶどうパンを食べられる気がするんだ」
「よくわからないけど、ぶどうパンはいらないかな」
「いや、ぶっちゃけ飽きるんだよ。特にこのぶどう」
倉本は先ほどからまったく食が進んでいなかった。
ぶどうパンを買う理由が、安いからだという単純な理由なら仕方ないだろう。
というかぶどうに飽きたら、ぶどうパン買う意味ないよな。たまに食パンの日もあるが大丈夫だろうか。
「でも最近、小麦が値上がってるんだってな。パン食も考えなくちゃならないか。か〜、ぶどうパンすら食えなくなると思うと辛いぜ」
「で、今度は何を買ったんだ?」
「へっ、CDだよ。衝動買いだ。これがまたへったくそでな」
「それを控えりゃ、もっと豪勢な昼食になるだろうに」
「買わねばならぬ時がある。俺にとってそれが昨日だったわけだ。今度貸してやるよ」
倉本は一つ目のぶどうパンを食べ終わると、二つ目の袋を開けた。
レーズンの香りにやられ、顔をしかめている。自業自得だ。
「でも高くなるって言ったら全部高くなるよね。私もお買い物に行ったらびっくりしたもん」
「きついよな〜。UCISもいいけど、そっちの方も力入れて欲しいぜ。選挙権があったら、絶対パンを安くする政治家に入れるのに」
「そうだよね。でも事件とかも起こってるし、仕方ないんじゃないかな。私だってちょっと怖いもん」
「ま、そりゃそうだよな。能力者って何か、よくわからないし」
二人の世間話を聞きながら、俺は逃げるように視線をさ迷わせた。
自分が非難されているわけではない。そうは分かっていても、積極的に会話に参加したいとは思わなかった。
能力者とそれ以外。いや、人間とそれ以外か。確かに、目に見えない線はあるのだから。
這わせた視線が外へと向かう。その矛先が、校門の傍で止まった。
一人の男が門柱に背中を預けていた。遠めで見ればよくわからない。
肩まで伸びるこげ茶の髪に、メガネをかけているだろうか。
睨むように校舎を見つめるその姿は、どこか見たことのあるような気がした。
馬鹿馬鹿しい。この錯覚は今日で二度目だ。
いや、二度もあれば逆に本当に会っているかもしれない。
だが思い出せないのなら同じだった。
いや、記憶の縁に何かが引っ掛かった。衝撃的な何かだったはずだ。確か――
「おい、矢神!」
「え?」
「え? じゃねぇって。ボーっとしてんじゃねぇよ」
振り返ると、倉本と月峰がこちらを見ていた。
倉本は呆れたように、月峰はいつもののんびりとした笑顔だった。
「すまん。で、何の話だったんだ?」
「好きなスナック菓子の話題だったよ〜」
「おい、さっきは政治の話してたじゃねぇかよ……」
「してたね〜」
月峰はのほほんと微笑んでいる。さすがに話題が飛びすぎだ。
だが割といつものことだったので気にしなかった。
再び窓を見ると、男はすでに姿を消していた。
少し気にはなったが、記憶を辿るのも面倒だ。
それからさして考えることもなく、時計の針は昼休み終了の時を刻んでいった。
※
「あー、めんどくせぇ」
俺はそうぼやきながら、帰路についていた。
夕暮れが染める町に、選挙カーが走っていく。がなり立てる声は変わらない。
『UCIS能力者を規制し、市民に安心して住める街づくりを』
まるで能力者が市民ではないかのようだ。
確かに非能力者にしてみれば、見えない拳銃を持っている誰かが潜んでいるようなものだろう。
それはもしかすると、笑顔で接するお隣さんかもしれないし、そこですれ違った通行人かもしれない。
「けど、それで犯罪者呼ばわりはやめろよな」
本当に面倒だ。
引き金を引くかどうかは、個人の資質にかかっている。
ある者は力を得て満足し、ある者は力を試そうと人を襲う。
能力など使わずに一生を終えるものもいるだろう。
それを一括りにされてはたまったものではない。
そんな物思いにふけっていると、唐突に、短い悲鳴が聞こえた。
そう、引き金を引く人間はいるのだ。能力者であろうがなかろうが。
「本当に、めんどくせぇ……?」
関わるまいと思っていた。面倒なことになる前に立ち去ろうとさえ思っていた。
だが急速に高まる違和感に、ふと足を止める。
――今の声は、いつか聞いたことがあったのではないだろうか。
次の瞬間には駆け出していた。誰の声かはわからない。
ただ見知った人間だと思うと、足を止めることが出来なかった。
続く衝突音。次の角の先か。壁に手をつき、ブロック塀に隠れながら視線を投げた。
俺の目が見開かれる。
「なんだ……あれ……」
路地の奥に広がる光景を見て、俺は思わずそう呟いていた。