− 第十一話「対決、鬼ごっこ」 −

 放課後。

「矢神先輩はいらっしゃいますか?」

 帰りのホームルームが終わると同時に聞こえた声に、俺は頭を抱えた。
 『あ、矢神くんの彼女さんだ』『かわいいー』『迎えに来たんだ』なんて声がそこかしこから上がる。
 人の噂も七十五日と言うが、その期間が過ぎるより俺がノイローゼか神経性胃炎にでもかかる方が早い。絶対に。
 今度からは、せめて校門前とかで待ち合わせるようにしよう。
 そう思いながら立ち上がり、教室の入り口に立っている関原を見て――俺は言葉を失った。

「矢神先輩。支度が出来ていないなら早くしてください」
「あ、ああ」

 慌てて鞄を引っ掴み、前の席の月峰に挨拶をした。
 教室を出る瞬間、「捨てられなかったのか」と、バカの声が聞こえたのは無視する。
 俺の数歩前をせかせかと歩いていく関原の背は、明らかに疲れて見えた。

「……何があった?」

 気付けば、俺はそう尋ねていた。
 沈黙が僅かに流れる。
 半身振り返った関原は、見るからに辟易としていた。
 俺の知っているクールフェイスも、今はなりを潜めている。
 が、それも一瞬のことで、瞬きほどの間に関原は顔を引き締めた。

「昼にも言いましたが、ここでは話せません。まずは私の家に……」

 その言葉は、言い切られなかった。
 口を「い」の形にしたまま、関原の体がガクンと横倒しになる。

「っ!」

 咄嗟に関原は窓の縁を掴んだ。

「だ……大丈夫か?」
「なんともありません。情けないところを見せてしまいましたね」

 壁によりかかるように立ち上がり、関原は廊下に鋭い目を向ける。
 見ると、窓からの日光を僅かに反射するものがあった。

「水か?」
「掃除のときにでも誰かがこぼしたんでしょう」

 語尾に小さな溜息がついていた。

     *

 居間は両親が来るかもしれないので私の部屋に来てください。
 そう言われたとき、俺は不覚にもどぎまぎしてしまった。
 そういえば女の子の部屋に入るなんて、妹を抜かせばこれがはじめてだ。

「どうぞ」

 促され、俺は関原の部屋に踏み入り――理想と現実のギャップに呆然とした。
 部屋の真ん中には何の飾り気もないテーブルが一つ。
 システムデスクの上にはノートパソコンが置かれている。
 その脇には小さな本棚が置いてあるが、漫画の類があるようには見えない。
 ひいき目に見ても、女の子の部屋とは思えなかった。

「適当に座っていてください。お茶でも入れてきます」
「……ああ」

 俺は何を期待していたんだろう、と思いながら、一つしかないクッションを尻に敷く。
 あいつは、女の子である前に関原・遠乃なのだ。
 そんなことも失念するとは、どうかしている。
 きっとマヨネーズのせいだ、と誰が咎めるでもないのに責任転嫁してみた。
 俺の能力は、身体能力は強化出来ても、悲しいかな頭の回りは強化出来ないからな……などと考えている間に、関原は戻ってきた。

「お待たせしました」
「むしろ早すぎだ。洗い忘れたティーポットに溜まったままの出涸らしをそのまま入れてきたわけじゃないだろうな?」
「あなたの分だけはそうすれば良かったと今思いました」

 かちゃ、と目の前に置かれたカップから芳香が漂ってくる。
 俺は茶に詳しいわけではないが、出涸らしなどでないことはさすがにわかった。

「お湯はポットにありましたから。ただ蒸らしが不十分かもしれません。それとも、冷たい麦茶の方が良かったですか?」
「いや、別にいい。それよりも……」

 そう言いかけたところで、関原はテーブルの上に四角いものを置いた。
 レデ〇ボ(バニラ)だった。

「……エスパー?」
「わからない方がどうかしてます」

 溜息混じりに言われたが、アイスを目の前にした俺には気にならない。
 早速フタを開け、スプーンを手に取る。
 フタの裏を舐めるかどうか迷ったが、関原の目の前でやる気にはさすがになれなかった。
 危なかった、これがハーゲン〇ッツだったらと思うと……

「では、本題に移りますが」

 俺の正面に座り、関原は正座をしながらぴしっと背筋を伸ばした。
 こういうところを見ると、歳の割には大人びてるな、なんてことを思う。
 身体の成長は遅れているようだが。
 そんなことを思いつつ、普段は買いたくても買えないランクのアイスを口に運ぶ。

「私は現在、鬼ごっこを強制されています」

 ぴたり、と俺の動きが止まった。
 口に運ぶ途中だったアイスを置いて、関原を真っ直ぐに見る。

「……鬼ごっこ?」

 ここ最近耳にしていなかった単語に、思わず間抜けな声を出していた。
 今のは関原流の冗談だったのだろうかとすら思う。
 しかし、関原は神妙な顔をして、はっきりと頷いた。

「昼休みに見た茶髪の女を覚えていますね?」
「ああ」
「彼女――羽柴・茜は、UCISです」

 俺はスプーンを手放した。
 頬が強張るのが自分でもわかる。

「マジか」
「はい。どうやら彼女も美春さんなどと同じように日特連に関与する者のようです。美春さんが私たちに捕らえられたことで、その身柄を解放することを伝えにくると同時に、私の日特連への勧誘を美春さんの代わりに続行しにきた、と言っていました」
「なるほど。屋上ではそんなことを話してたわけか」

 学校内部にまで能力者を送り込んできたのか、それとも元々学校の生徒だった者が刺客に選ばれたのか。
 何にしても、安穏とした日常を送りたいと思っている俺たちにはあまり好ましくない状況であることは確かだ。

「それだけではありません、矢神先輩」

 関原の声が俺の思考を遮る。
 音も無くカップに口をつけてから、関原は微かに俯いて

「彼女の能力の影響を、私は今も受け続けています」
「……それが、鬼ごっこ?」
「そうです」

 アイスを一口食べた。
 頭を動かすにもカロリーは消費する。
 冷たいものでも食べて、少し落ち着こう。
 が、しばらく考えてみても、鬼ごっこがどんな能力なのかなんて、さっぱりわからなかった。
 俺は思考をやめ、素直に尋ねる。

「そう言うってことは、どんな能力なのかわかってるんだろ?」
「ええ、本人が楽しそうに解説してくれました」

 何かがきしむような音が聞こえた。
 かと思うと、関原は握っていたスプーンをそのまま握り潰していた。
 きっとカルシウム不足なんだろう、もっと牛乳を沢山飲むべきだ。
 そうすれば、もしかしたら胸も大きくなるかもしれんぞ。

「彼女の能力――『鬼ごっこ』は、対象に触れることで効果を発揮します。その効果は、自らの不幸の付与です」
「……それは、なんとまあ」

 最高に性格の悪い能力だ。

「この能力を解除するには、対象となった人物が直接彼女に触れなければならない。ただし、能力の効果は彼女を中心とした半径約二百メートルだということです。はっきり言って――嫌がらせとしか思えない能力です。実際、非情に迷惑です」

 関原のあからさまな溜息が漏れた。
 教室に来たとき、関原が見るからに疲れていたのはこのせいだったのか。
 そんな能力に晒されたら、俺だって平気でいられる自信がない。

「それで、どうするんだ?」
「もちろん、能力を解除します」

 即答だった。
 まあ、相手に主導権を渡しているに等しいこの状況では、綾瀬を解放する選択肢はない。
 綾瀬を解放したところで、関原にかかっているらしい能力を解除してもらえる保証はないのだから。
 後手に回っている感は否めないが、仕方が無い。
 と、

「話は聞かせてもらったよ!」

 ズバーン! とドアを蹴破る勢いで入ってきたのは、綾瀬だった。
 どうやら部屋の外で盗み聞きしていたらしい。
 とは言っても、別段聞かれて困るほどの話はしていなかったので、俺も関原も慌てることなく視線を向ける。

「盗み聞きとは趣味が悪いですね」
「細かいことは気にしなーい! ふふ、どうやら困ってるみたいだねお二人さんっ」
「いや、困ってるのは関原だけだ。俺は別に困ってない」

 キッと関原の目が光った気がしたが、気付かない振りをしてアイスを口に運ぶ。
 やっぱりバニラは最高だな。

「とーのお姉ちゃんも厄介な人に目をつけられたねー。よりによって羽柴のお姉ちゃんだなんて」
「知ってるのか?」
「矢神のおにーさんは、私が日特連に所属してるってこと忘れてない?」

 忘れてはない。
 ただ、綾瀬に人並みの思考力があるとは思っていないだけだ。

「羽柴のお姉ちゃんはすごいよー。あの霧矢くんですら距離を置きたがるもんね」
「不幸に自ら近づこうとする人はいないでしょう」

 はぁ、と関原は本日何度目かの溜息をつく。
 こんなに参ってしまっている関原を見るのは初めてだ。
 なんというか……なんとなくやりにくい。
 そういえば、俺に対する反応にもいつものキレがない。
 普段なら、既に一発くらいビンタが飛んでいてもおかしくないはずだ。
 やれやれ、と俺は最後の一口を食べて、関原から視線を外して

「ハー〇ンダッツ全種類」
「……?」

 関原の視線が向くのがわかる。
 俺はそのまま続けた。

「一度でいいから、目の前にあれを全種類並べてみたい。俺の夢の一つなんだ。でも、そんな金は俺には無くてな。その夢を叶えてくれる奴がもしいたら、俺はそいつになんでもしてやれる自信がある」
「何を言ってるんですかあなたは」

 冷たい言葉が突き刺さる。
 うるさい、俺だって自分がどうしてこんなことを言っているのかよくわからないんだ。
 今すぐ関原に向かって「それはお前の問題だ」と言い放って帰宅。
 以前までの俺なら、間違いなくそうしていたはずだ。
 そうしないのは、少なくとも俺は、関原の元気の無い姿を見ていたくないらしい。
 まあ、誰かが辛気臭くしているのを見たいなんて思う奴はいないだろう、と俺は頭の中で見知らぬ誰かに言い訳をする。
 クス、と小さな笑い声がした……ような気がした。

「わかりました」

 その声に、俺は視線を戻す。
 関原は、見慣れたクールフェイスで真っ直ぐに見つめ返していた。

「ハーゲン〇ッツ全種類……それを条件に、能力解除の手助けをしてください、矢神先輩」

 つっけんどんなくせに、素直な物言い。
 なぜか自然と笑んで、俺は答える。

「任せろ」

 グッと親指を立てて見せた。
 冷たい視線が刺さったが、気にならない。

「死んでください」

 それでこそ関原だ。

「それで二人とも、もし良ければ私も……」
「いらん」
「いりません」

 俺と関原は、同時に答えていた。

「うう、ナイスコンビネーションだよ……」

 がっくりと肩を落として、綾瀬は静かに部屋を出て行った。
 綾瀬が協力してくれるのは心強いが、いくらなんでも引っ張り出すわけにはいかない。
 第一、それじゃお互いの立場がわからなくなる。
 綾瀬には悪いが、綾瀬が日特連に所属している限り、あくまでも俺たちは敵同士なのだ。

「羽柴先輩と接触できるのは、基本的には学校だけです。しかも彼女は素行がよろしくないようで、遅刻も早退も多い」
「接触出来る時間自体が少ないわけか」
「しかも、あの人は二年生らしいですから、そもそも私と予定が合いにくいですね」

 そうなると、思ったより厳しい戦いになるかもしれない。
 ただでさえ時間の合わない相手で、しかも絶対にいるはずの時間に全く別の場所にいることもあるわけだ。
 俺がその羽柴とやらを確保しておくという手もある。
 俺の能力なら、羽柴を捕まえること自体は造作も無いだろう。
 だが、学校では俺の能力も大っぴらには使えない。
 しかも女子生徒に手荒なことを出来るはずもなく、万が一他の生徒に見られた日には、関原との噂が蔓延している現状、俺の評判が地に落ちるのは想像に難くなかった。

「とにかく、相手は基本的には一般人と変わりません。二人で追い回せば、そう苦労せず捕まえられるはずです。矢神先輩、羽柴先輩を見つけたら、すぐ私の携帯に連絡してください」
「わかった」

 俺は頷いてから、立ち上がる。

「今日もバイトなんで、そろそろ帰らせてもらう」
「わかりました。明日は頼みますよ。アイスはちゃんと用意しておきますから」
「おう」
「アイスのために頑張ってください」
「……おう」

 なぜか、最後の関原の言葉には、即答出来なかった。
 その理由が自分でもよくわからないまま、俺は関原の部屋を後にした。